ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

一日の始まりの終わり

イメージ 1

 もちろん、「すべての終わりの始まり」(キャロル・エムショウィラー)の盗用である。休日は、思考停止しなくてはならない。しかし、思索ではないのだ。休日に、日常のことを考えてはいけないのである。私は、休日にパソコンを開くことは殆どしない。
 本来、メールなど無くてもよいと思っている。メールに追われるなど、真っ平ごめんだ。休日は、一日の始まりの終わりであり、一週間の始まりの終わり、一ヵ月の始まりの終わり、一年の始まりの終わり、生涯の始まりの終わりだと思っている。
 人間は、高等遊民で無い限り、働かなくてはならない。本来、高等遊民の存在は、酷く、不平等な社会システムと構造から存在を許されてきたのだから、そのかつての存在を一概に肯定するつもりは無い。しかしながら、武者小路実篤の記述にあるように、また、夏目漱石の小説に散見できるように、高等遊民の存在と行動思考、および作品が、文化を練り上げてきた事実を否定しようとは思わない。
 では、その存在が歴史を牽引してきたのかというと、たぶん、違うだろう。しかし、高等遊民の存在様式と時間と思索行動が新しい知識と考え方の息吹と、古い因習や、間違った歴史認識を問いただして紀ことには間違いない。
 私は、休日が高等遊民の欠片のように過ごすことができればよいと思う。
 「萌の朱雀」を観た。作品の評価は色々であり、私は評価するとも評価しないとも言う立場にはいない。しかし、あの現実は、現代、近代日本の生活の断片の一齣であると言う事が監督の主張のひとつであろうことは推察する。
 日本も、世界も、もはや、断片で切り取ることのできる、自然も、家庭も生活も無い、のではないか。という、疑問と問いが頭から離れない。余裕を持って、その答えを見つけ出すために旅をしたいものだ。