「僕の魂、君に上げよう~」というゴールデン・カップスの人生観と哲学
ゴールデン・カップスにうつつを抜かした。小学生から中坊の頃からである。
「いとしのジザベル」の280円の45回転のEP購入から始まり、全てのレコードとCD、いまでは映画になり、DVDも発売され、その全てを持っている。
ちっぽけな誇りとその歴史。たかだか40年が過ぎた。
「いとしのジザベル」でガ~ン!と頭をドでかいハンマーで殴られ、「銀色のグラス」で背中をどやし付けられ、「クールな恋」に痺れ、「愛する君に」で人生観らしきものを確認した。
未来なき人生観、生きる術はクールでソウルフルであること。そして、何もかも、周りの全ては、神も宗教もスピリチャリズムも一切信用しないこと。信用できるのは愛する女、そして愛してくれる女と言う実感。そして友人のみ。
そんな、人生観と哲学は和製R&Bの先駆け、「愛する君に」の歌詞と演奏に言い尽くされていた。
世の中の当たり前のことなど、端から侮蔑すること。不良であることが身上で、運の良さなど、宝くじに当たる確率ほどに自身の身の上には起こりえないこと。
たまさか、運がよければ「ラッキー!」と独り、呟きほくそえむ。そんな生き方をR&Bからガレージ・パンクの日本の草分けへと疾走するカップスから学んだ。
それが、子供の私の生き方の始まりであり、人生への哲学の端緒であった。
子供は人類となり、人類の営々たる生活と地球の過ぎ行く時間の中軸に否応も無く放り込まれる。
現在の人類は地球温暖化の歩みと共に、生活をする。
人類はちっぽけな努力で地球温暖化の微々たる時間を遅らせることは可能かもしれない、が気候と天候は地球の機嫌と必然の中にある。
我々は、地球の機嫌をとりながら生きていけばよい。
その努力は知的人類たる人間が地球に存在している証明として、営々と継続することは必要である。CO2の排出抑制もその一つであろう。
ただ、炭素クレジット(Carbon Credit)取引の国際市場の創設やら、その動き。今後の日本に於ける国内排出量取引制度の創設となると全く嘘臭く、人間と政治の胡散臭さの最たるものとしか言いようが無い。
また、6月25日に成立した東京都の「改正環境確保条例」もその一つである。2010年度から、国内で初めて、CO2の削減を義務化するのは兎も角、事業所間で削減量を売買する排出量取引制度を導入する。
この仕組みは国際的に大きなカネが蠢き流れる新たな投資市場を形成を意味する。カネと利権がまたぞろ跳梁跋扈するのである。
それにより、新たなる格差の温床となり、人間はその実、生活の度量を量り、同じく度量を図る努力の放棄を行うことに他ならない。
「知的」人類とは追い詰められると哲学を放棄し色々、小賢しい猿知恵を考え出すものである。猿知恵はともかく、悪知恵も働くのである。
投機市場の中で行き場のなくなったカネはより高いターンを求めて動き出す。
火事場に薪を投げ入れるようなものである。
政治や国際政治にもはや投機市場の調整力など無い。抑制政策すらとることが出来ないのである。
その格差の増大は政治の危機を呼び、治安の悪化を必然的にもたらすのである。
事件は続く。地球温暖化は無くとも哲学なき人類は滅びる。