主張するクラッシック音楽。読響:第467回定期演奏会をサントリーホールで聴く
指揮はヒュー・ウルフ。ピアノは若き天才、アンティ・シーララ であった。
演奏はまさに、主張をする。そして、民衆と民族の抵抗の歴史を物語る伝統を表出したクラッシック音楽であり、光り輝いていた。
音楽の演奏者(指揮者も含む)は、「本来、何も語るべきではなく、音そのもので判断すべきもの。ましてや、JAZZなどは、聴衆がJAZZを創り上げていくもの」という意見がある。蓋し、至言である。このことはクラッシック音楽にも当て嵌まるのだろう。
しかし、視点を転換すれば己、自らに突きつけられた刃となるのである。
演奏者が、ものを語らずして、何を語るというのか、主張せずして、何を聴き手に伝えようと言うのか。はたまた、作曲者は主張なくして、そして自己の思い無くして、何故にその楽曲、演奏に伝達力と、伝播力を齎し得るというのか。
評論家と称する者たちや、一部の演奏者は、永い間、この言を一面的に言い訳として用い、主張し、語るものを妨害し、威嚇し、圧殺してきたのである。
コマーシャリズムが悪という訳ではない。
いつの間にやら、コマーシャリズムの荒波の中で、喘ぎ泳ぐことを止め、自己を放棄し、荒波に身を任せることで、自己保身と楽土に安閑とする思考放棄を繰り返してきたのである。
音楽家の使命は、歴史の思索と思考を、そして自らの世界観を伝播するものであり、評論家と称するものの使命はそこに依拠するもので無ければならない。
バルトークはナチズムの脅威や母の死を憂い、自らの民族の誇りをその楽曲に託した。
その主張と思索こそがクラッシックと言われる所以の何者でもないのである。
音楽に、JAZZもクラッシックも無い。あるものは主張であり、思索であり世界観である。そしてその世界観に裏打ちされた伝統と歴史である。
作曲者やプレーヤーはその体現者であり、伝播者なのである。
ヒュー・ウルフやアンティ・シーララ、そして読売日本交響楽団のメンバーとスタッフは正に、伝統と歴史の光り輝く伝播者であった。