ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

1970年私のジャズの始まり~…新潟ジャズ史の発祥「ジャズファン ママ」

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 1970年(昭和45年)は私にとってのジャズの始まりの年でもあった。新潟市の古町六番町に「ジャズファン ママ」が開店した年でもある。

 その頃、新潟市にはジャズ喫茶と言えば「スワン」しかなかった。たぶ2・3年前に開店していたのだと思う。私も、高校生ながらだいぶ通ったが、なぜか私は「スワン」では落ち着かなかったことを覚えている。

 数人の友人たちが、もはや常連だったからか。当時、スワンで、同級生だったイシヤマレコードの御曹司の石山君には本当によくMiles Davis を教わったものである。モダンジャズの初歩は彼から教わった。

 自分も常連の店が子供ながらに欲しかったのかもしれない。そんなときに「ママ」の開店を聞き勇んで出かけた。

 新開店の「ママ」は「スワン」とは違い、照明も明るくて広い、充分なライブスペースがあった。音響機材もスワンにも勝るとも劣らないものをそろえてあり、ドラムセットとピアノが用意されていた。当時としては珍しく、照明設備やPAも用意されていたのではないか。

 レコードの枚数はスワンには、遥かに及びつかないものの、金銭的には店主の佐藤政良さんはだいぶ苦労をされていたのではないか。

 店主の佐藤さんは当時、29歳か30歳くらいであったのだろう。経歴は知らなかったが、ご自分でもドラムをたたく新潟弁(沼垂弁)のキツイ、気さくな人であった。特に「スワン」にはライバル意識を燃やされていたのだろうと思う。

 記憶は定かではないが、ジャズスポットとしての初めての出演者は坂本輝トリオではなかったかと思う。当時、坂本氏はワインピアニストと呼ばれていたように記憶する。スタンダードナンバーを中心に演奏したのだが、音の記憶はあるものの何故か不思議と坂本輝氏の顔を覚えていない。全く覚えていないのである。

 ここ、「ジャズ ママ」(℡29-0558)で、私にとってはとても偉大な人と出会うことになる。