ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

『ヨーロッパ・ジャズ・フェスティバル’70 』:’70年の壮大なる無駄遣い!大阪万博が残した唯一の貴重なる遺産

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 日本に於ける万国博覧会の開催は、日本の悪しき伝統となるハコモノ行政の大いなる象徴であった。

 1970年の大阪万博は戦後日本経済の復興の象徴となるべく、国家予算を湯水のごとく垂れ流し、全く中身の無い、空虚な箱を羅列した。

 正に戦後日本の文化の空虚さをはしなくも露呈したのである。

 話題を攫ったのは、岡本太郎太陽の塔(悪魔の塔と嘲笑されたものだが…)と、宇宙船アポロが持ち帰ったという月面の石ころ一つであった。

 この後、日本は1973年の第一次オイルショック、79年の第二次オイルショックハイパーインフレの激震に襲われ、国民は塗炭の苦しみを味わうのであるが、露とも知らぬ国民は大阪に向かって、太平楽の行進を進め、千里の丘と野っ原にヤマタノオロチも真っ青の大行列を作ったのである。

 わが家人も、当時は13歳。長野の片田舎より家族総出で、大阪の住吉にある親戚の歯医者の家に泊まり、随分、肩身の狭い思いをしたと言う嫌な記憶があるという。

 私は15歳の高校一年生。新潟でJAZZを聴き齧リ始めた生意気盛り、訳も解からず「万博なんて…」と鼻先で笑っていたものである。

 中には高校生にもなって、大阪まで家族で万博見物に行く者を、仲間内で笑い飛ばしていたものだ。時代は学生運動の嵐が吹きすさぶ頃。この前年には我が母校も反戦高共の諸君がバリ封、警官隊の学内導入という未曾有の事件があったばかりであった。

 しかし、高校では夏休み明けに「万博でJAZZ聴いてきた。凄かったぞ。」などというものも現れ、羨ましい思いをしたのも事実である。

 さて、この’70年大阪万博が唯一残した偉大な遺産が『ヨーロッパ・ジャズ・フェスティバル’70 』である。

 日本で行ったにもかかわらず、何故、ヨーロッパなのか?

 正式には《エクスポ’70ジャズフェスティバル》といい、1970年の8月18・19日に同一メンバー同一プログラムで朝夕2回ずつ計4回のステージが万博ホールで開催された。

 出演メンバーは穐吉敏子4、インドネシア・ジャズ・グループ、渡辺貞夫4、日野皓正4、原信夫とシャープス&フラッツ。

 そして、このヨーロッパ・ジャズ・オールスターズである。

 当時のアルバムの題名の付け方は随分といい加減であったものである。

 このオールスターズのメンバーはヨアヒム・ベーレントによって召集され、1969年のベルリン・ジャズ・フェスティバルに“The Down Beat Poll Winners in Europe”として、出演した、
 ジョン・サーマン(SS.Bkl.Ts.Bsax)、アルバート・マンゲルスドルフ(TB)、フランシー・ボーラン(P)、ダニエル・ユメール(D)、ニールス・ヘニィング・オルステェド・ペデルセン(B)、カリン・クローグ(Vo)、にヴァイオリンのジャン・リュック・ポンティとオルガンのエディ・ルイスを加えた今を時めく錚々たるメンバーであった。

 コンサートの模様は、不充分ながらにも、NHKと言う公共放送で画像が流れ、NHKの音楽特番にもメンバーが数回出演し短いながらも演奏を披露したことで、当時のJAZZファンやマニアを驚愕させたものである。

 兎にも角にも、JAZZフェスティバルと銘打った興行は何度となく、あったものの、これだけのメンバーが揃ったステージにはお目に掛かれなかったのである。

 特に、ヨーロッパ・ジャズ・オールスターズの面々には打ちのめされた。今でこそ、実力とセンス、そしてなによりも、ヨーロッパのみならずモダンJAZZ界をビックバンドJAZZからフリージャズ、フュージョン界を牽引している有名人揃いであるが、実は当時は日本では一部を除いて、無名であったのである。

 日本のJAZZファンやマニアはその超絶なるプレーとコラボレーションに圧倒されたのである。

 各メンバーについて喧伝するのは野暮の極みである。しかし、この8名のヨーロッパのJAZZメンたちが日本に残した足跡とその後の影響力は、万博の月の石クレなど比較できない大きなものであった。

 日本のJAZZファンは驚愕させられたのである。

 ジョン・サーマン。彼は来日前の3月にケンブリッジに於いて『The Trio』を録音している。そして、来日後、日本では『問題児:ジョン・サーマン』と言う邦題で2枚組みLPが発売された。このアルバムはオーネット・コールマンの「ゴールデンサークル」に匹敵すると賞賛された。その後の活躍は言うまでもない。

 そして、ジャン・リュック・ポンティ。彼のエレクトリック・ヴァイオリンを駆使するフリースタイルJYAZZは他のメンバーと共に、後日にヨーロッパのフリーJAZZを日本に紹介し、ヨーロッパフリーJAZZファンを根付かせたきっかけとなる。そして、フュージョンを日本に置いて行った功労者である。

 アルバート・マンゲルスドルフも言うまでもないだろう。この後、日本では『DIGGIN'』という名作を残すことになる。

 紹介すれば切りが無いが、このフェスティバルの試みが、内実として日本のJAZZ界に新しい旋風を巻き起こし、詰らない外タレのみならず実力派の新しいJAZZの息吹を日本に吹き込むきっかけを作ったのである。

 このアルバムにはその息吹と言うより驚愕する内容が裏表に収められているのである。一種の日本のJAZZの記録と考えてもらってよい。

 大阪万博後の日本のJAZZが大きく変化して言ったのは言うまでも無い。

 その意味で、このコンサーとアルバムが大阪万博が残した唯一の貴重なる遺産であった。