1972年4月29日(土)、そのとき高木元輝のテナーの咆哮で、新潟は震えた…
1972年4月29日の昼過ぎ、今は亡き、間章(あいだあきら)氏がプロデュースする、新潟現代音楽祭《自由空間》が開催された。
体育館のステージ前、最前列に陣取っていた私の読みでは、この発表はあくまで、延べ人数。2・300人の観客が、長い長い、演奏時間の間中、体育館の中をうろうろ、勝手気ままに、出たり入ったりしている。
間さんは、ステージ下の隅っこで、「大赤字だ!」と嘆いていた。
初っ端の演奏は、高木元輝デュオ(Dr:豊住芳三郎)。「間章クロニクル」などに、高木元輝トリオとクレジットされているが、Bsの吉沢元治さんが、ソロ出演したので、(「インランドフィッシュ」と「MADO」をソロで演奏)豊住さんとのデュオであった。
狂気に取り付かれた黒馬のいななき。
凄まじい音量と、狂ったようなフリースタイル奏法での高木のテナーの咆哮で、新潟JAZZ《自由空間》の幕は気って落とされたのである。
最大ボリュームで途切れることなく、空間を切り裂いてゆく高木のテナー。
小柄に見え、ちょっと猫背な高木とは対照的な筋骨隆々タンクトップ姿の豊住は、流れる汗を撒き散らしながら、高木のテナーを追跡して行く。
真っ暗なステージに、ピンスポの二本の明かりが高木の汗と、豊住の汗がぶつかる様を照らし出す。
高木のテナーと豊住のドラムは空間の上空へと螺旋を描きながら、上昇し、飛翔する。
互いの研ぎ澄まされた音の群類は、ぶつかり合い、時には共鳴しながら、そして睨み合う。
ある時は立ちすくみ、そして牽制し、敵を挑発する。
楽器の音の群類は、正面衝突したとき、音の火花を散らす。その火花のかけらは、暗い時代の空間の彼方へと飛翔し、雲散霧消するのである。
ある時は高木のテナーが、そしてある時は豊住のドラムが相手を挑発し、追いつき抜き去ろうとする。追いつかれまいとするものは速度をツイと上げ、そのスピードは落ちることを知らない。
豊住は打楽器群を、これでもか、これでもかと繰り出し、スズや竹笛、果てはホイッスルで、応戦する。高木は襲ってくる複雑でパワフルなリズム群に、より複雑で、難解なフレーズで息つくことなく、対峙していくのだ。
果てしなく続く、二人の音のナイフは、正に1970年代の時代の闇に斬りつけ、切り裂いていくのだ。
そのとき、確かに、新潟はアヴァンギャルドJAZZの洗礼を受けたのである。
私は、JAZZという大きな盥で、アヴァンギャルドの冷や水を頭から浴びせられた。その衝撃は、後年になって聴いた、高柳昌行の渋谷の「ステーション70」でのライブアルバム「call in question」で、一層増幅される。
果てない音は、突然に止む。正に30分弱の音の不連続線。終わりは必ず来るのだ。
突然、マウスピースから口を離した高木は悄然とし、何本ものスティックを空間に放っていた豊住はドラムセットに突っ伏す。
立ったままいつものようにパイプを口に咥えて、聴いていた野坂恒如(のさかすけゆき)氏が独り言のように呟いた。
「これで新潟のJAZZファンも変わるよな…」