ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

1990年、高柳昌行は時代を超えた~ロコ高柳とロウポプレス「el pulso」

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 8月の末に「ロンリーウーマン・ライヴ」のCDを購入し、高柳昌行さんのアルバムコレクションは一定の決まりがついた。

 70年以降の録音盤は残すところ、戸谷重子さんや、今田勝さんと録音した「FINE AND MELLOW」(73.5.17)、同じく73.11月に録音された「JAZZ GUITAR FORMS」の二枚である。

 この二枚はCD発売が今のところ無いので、焦る必要は無い。元々、高値でコレクションする性格でもないし、カネもない。

 かつて、一生の不覚は、中野サンプラザホールでのマイルス・グループの演奏を聴きに行かなかったこと、と書いたことがある。

 他にも不覚は二つある。

 阿部薫を「騒」に聴きに行かなかったこと。そして、高柳昌行さんを、直にこの耳で聴く事ができなかったことである。

 聴きに行くことができなかったわけではない。1982年以降は西荻アケタの店」に高柳昌行さんは出演していたし(このときは私は「井の頭公園」駅前に住んでいた)、「アケタの店」にもよく行っていた。

 1984.11.04の富樫雅彦インプロビゼーションジャズオーケストラ(草月ホール)、1985.10.05の芝増上寺ホールでの「アクションダイレクト」はチケットを購入していたが、大阪出張と重なり、行くことができなかった。

 めぐり合わせの悪さとはこんなものである。偶然ではない。必然の成せる業である。積極的にコミットする気が無い、弱さの露呈である。そこには、私自身の気の弱さ。面倒なものを心なしか避ける、スノッブさが露呈しているのである。

 阿部薫にしても、当時「騒」のママに気に入られ、「騒」でアルバイトしていた友人がいた。その友人はインドで知り合い、一緒にインドを旅した友であった。

 その友人が帰国後、私の消息を訪ねてくれ、私の兄を通じて、伝言をくれた。「阿部薫が出ているので騒に来ないか…下北のガヤは知っているだろう。」

 1978年は、私が一周遅れの学生運動の延長で、卒業もせず、東京と大阪を行ったりきたりしていた頃で、なんとなくその頃の自分が気恥ずかしく、その友と顔を会わすのが気まずかったのである。

 最後の阿部薫の演奏と姿を、この眼に収める機会を永遠に失ったのである。

 こんなことから、阿部薫高柳昌行さんのコレクションにのめり込んだ。

 一枚一枚のアルバムを批評する力も、そんな資格も無い。ただ、演奏とギグの歴史を疑似体験したいだけである。

 ほんの少しではあるが疑似体験することで、MASSとして、彼を掴み、その演奏に体現された、考えや思想の生産過程を知りたいだけである。

 その変遷はなかなか理解しづらい。しかし、変遷の片鱗を耳から頭の中に叩き込むことはできる。

 歴史は変わるものではない。内在性において、少しずつ、発展を遂げていくものである。それも、基礎理論と技術の気の遠くなる反復繰り返しの果てに螺旋を描きながら退歩に見える進歩を僅かながらではあるが確実に遂げていくものである。

 さて、ロコ高柳とロウポプレスの「el pulso」を繰り返し聴くとき、高柳昌行さんを突き動かしてきた、内在するものを垣間見ることができる気がする。

 例えば、タンゴの歴史の背後にある民族と音楽と苦悩の歴史…。それはタンゴには限らず、ロマの歴史やロマミュージック…。数え上げれば限が無い。

 しかし、その音楽は表現の、ある露出の局面において、演奏者の歴史と時代を超えることがある。そして、その表現の創造性と完成度の高さを保証し裏付けるものは血の滲むような反復繰り返しと練習の成果に他ならない。

 そして、自己に立ち向かう厳しさと、潔癖さである。

 ここに、S・J誌の1972年の通信欄に載った、高柳昌行さんの生徒募集の通信がある。

 【 ジャズ・ギター スパルタ式指導
  独自の方法論に基づき、主として精神的支柱の確立を目標とします。
 ギターに限らず、純正なるジャズ精神把握にための私塾的個人指導。
  制度儀礼を欠いた現代的若者はお断り。人柄、信念、忍耐力について
 選考し10名に限ります。
  初心者は懇切丁寧に指導します。 高柳昌行 】