ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

春のいぶき~東京の大雪:『友がみな我よりえらく見える日は』(上原隆)再読

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 東京に二年ぶりの大雪が降った。雪国育ちの私にとって、節分の後の2月の雪は春の息吹を感じさせるものだ。

 私の生まれた所では、2月に降った雪が根雪となり、4月まで永いときには5月まで至る所に残雪が黒く汚れて姿を見せていた。中学生頃までは卒業式や入学式にはその残雪に汚れないように歩くことが当たり前であった。

 しかし、黒く汚れた残雪にも陽光が差すと、きらきら美しく輝き、春の訪れを辺り一面に感じさせるものであった。

 雪はホームレスを殺す。土曜・日曜と凍死者が心配であった。

 早速、今朝、四谷駅の「ビッグイシュー日本版」販売者のOさんに差し入れがてら尋ねると、「事務所に寄って聞いてみたら、凍死者の情報は今のところない」とのことで、一安心。東京の雪は情け容赦なく路上生活者を殺す。

 路上生活者に徹底的に冷酷なのが、雪と日本と東京の政治家どもだ。やつらは自分のカネにならないことは徹底的に無視する。そして、ハシタガネさえ徹底して惜しむ。役人も余計なことをしたくない。政治家と官僚の顔色を伺いながらちょこまかと過ごす。
 格差を感じながら、努力するのは一部の良識ある下っ端役人である。

 ノンフィクション・ライターの上原隆さんの『友がみな我よりえらく見える日は』(幻冬舎アウトロー文庫)、『喜びは悲しみのあとに』『雨にぬれても』を再読する。

 上原さんは気取りもなく衒いもなく、「普通のこと」を「普通に書く」。何処にでもある、普通の人の普通の日常を淡々と書き上げていくのである。

 普通とは解説の村上龍曰く「有名でない人、メディアから取り上げられることのない人」。「普通に書く」とは曰く「一切の先入観を排して、自分が見たことだけ、聞いたことだけ書く」ということだ。正にルポルタージュの真骨頂である。

 上原さんは沢木耕太郎のように自分に格好をつけない。彼は、他人からは非日常的であろう事も本人は日常を生きているという同期化する術を書き手たる自分自身に備えている類稀なるライターなのだ。

 上原さんの本を読み出したきっかけは『友がみな我よりえらく見える日は』に「オキナワの少年」で芥川賞を受賞した東峰夫さんのことが「芥川賞作家」という題で載っていたからである。

 私は東峰夫さんの寡作群のファンであり、オキナワを描いた小説で東さんの作品を超えるものは未だかつて無いと考えている。

 また、府中に住んでいるときに車で八王子に通勤する道すがら、国立の谷保で道路工事のガードマンをする東さんを毎日のように見かけていたので、興味を覚えたのである。

 上原さんの作品は全く持って情に流されることがない。実は「普通の人」が日々過ごす日常は過酷であり、時には残酷でさえある。また、周囲を取り巻く環境は常に非情なのであるという、ロジックとテーゼを読むものに鋭く突きつけている。

 実は私たちは、他人の日常を非日常と片付けることによって自分の日常の精神的安寧を確保しようとしているのである。

 そのことに気づくことを放棄すると、知らず知らずのうちに自らがストレスの災渦に見舞われることになる。

 上原さんのルポはそれぞれが違う角度から腹に飛んでくる重いパンチのようだ。読み続けるうちにそれがしこりの様になり、そのしこりこそが現代日本の情況が持つ病巣であることに気づく。

 その意味では、暗く憂鬱なルポルタージュである。そして、『友がみな我よりえらく見える日は』『喜びは悲しみのあとに』『雨にぬれても』を順に読み進むにつれて時代の情況の移り変わりの様も解かってくる。

 日本の情況は益々、乾き、貧富の差は益々大きく広がり、後戻りできなくなってきている、それを情感を一切排した上原さんのペン運びも乾き、益々重くなってくるのである。

 上原さんの徹底して情を排した複眼的観察と記述は、無味乾燥な現在の情況を鋭く告発しているのである。ますます、彼のペンは渇き、重みが増していくだろう。