ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

苛酷な人生と終末を強要する政治と走狗ども:「母べえ」は後世に伝えたい映画である。

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 今年に入り、映画を4本観た。「ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記」「魍魎の匣」「アース」そして「母べえ」である。

 いずれも良い出来の作品ばかりであったが、特に「母べえ」は秀逸であった。

 戦前から戦中日本の治安維持法の行政検束で虐殺される夫であり、親である個人を軸に、その家族、周囲の人々、そればかりかその時代を生きざるを得なかった日本人の苛烈な人生の細々を描いている。

 人は否応無く、その時代の政治家と権力に翻弄される。それは覚醒した者を於いてオヤである。覚醒した個人は暴虐の時代の暴風雨の中で、傘を差し、身を屈めてひたすら食べ、生きることのみに奔走するか。その覚醒を自我として血肉かし、生きる糧とするかのいずれかである。

 往々にして、前者を選択することが知恵であるとされることが多い。しかし、覚醒した自我を封じ込めて於く事は覚醒した自我の自己否定であることから、意志の貫きと自我の主張を曲げることを拒否した個人も多かったのである。

 しかし、曲がらぬ棒を曲げるために、権力と走狗どもは、圧し折る手段を常に選択する。そして、その暴力こそが国家権力の源泉であり、その源泉にこそ、国家権力の権力たる所以が存在する。

 「母べえ」はのみならず、その個人を取り巻く周囲。そして、普通人と呼ばれる人々も権力の悪果に翻弄されざるを得ないことを映像に表現していくのだ。この映画は何の情緒も無く、情感すら拒否をする。山田洋二監督にしては珍しい作品であると思う。

 その姿勢こそがこの映画の秘める大きな意味を強く主張しているのである。

 「人生は苛酷である」しかし、その苛酷さは個人が選択したものではない。常に政治が選択するのである。

 虐殺された野上滋(坂東三津五郎)の死に顔をみよ。三鷹の病院で死に行く際に「あの世で父べえとは会いたくもない」と呟きながら息を引き取る老婆(吉永小百合)のシミだらけの顔をみよ。死に顔は何を語るのかを考えることが重要である。

 現在では「普通」という概念は高度経済成長期に形成されその後変化はしていない。そして、この概念の現在の崩壊を多様化という言葉で置き換えようとしている。

 しかし、崩壊した普通概念は多様化という言葉で置き換えようがその実は崩壊した日常なのである。「母べえ」と同じ時代の匂いがする。

 「母べえ」は後世に伝え残していかねばならない警告である。