ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

横濱エアジンで金剛督グループは“自由な”JAZZで示現する!

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 昨晩は東京駅で、神戸から出張で帰京した友人のN・Y君と痛飲する。N君は高校時代の同級生。大学時代はロックを演っており、現在はJAZZ好きで、「神戸の“小粋でイカス!バー”廻りに精を出している」神戸住まいの好漢である。
 「一度、ライヴを聴きに神戸でも、横浜でも一緒に行きたいものだ」と話し合っているが中々実現せずに残念である。

 さて先週、1月27日の日曜日に横浜のエアジンで、金剛 督さん(alt・ss・fl) のグループの演奏を聴くことができた。メンバーは 林あけみさん(p)、ツノ犬さん(ds) 村中俊之さん(cello) 室舘 彩さん(歌/etc)。
 実は、ツノ犬さん、室舘さん以外の方々の演奏は初めてであった。もちろん金剛さんのCDは頂いて繰り返し、繰り返し聴いていたのだが、やはり眼前で聴かせて頂く金剛さんの“自由な”JAZZは違う!

“示現する”JAZZミュージックが現出されていた。
 我々の日常と非日常は連続性を有している。日常から非日常を覗き込むなら戸惑い畏怖感を持ち、日常とは隔絶された別の空間に存在するような浮遊感に捉われる。また、その非日常に安住することにより日常にあることが愚かしくもばかばかしく感じられることもある。

 しかし、非日常と日常は別物ではない。同次元のものであり世界は日常性と非日常性を天秤として運行していくのだ。ライヴは非日常であるのか、いや、まさに日常であろうとするのがJAZZ演奏家であり、聴き手は往々にして、その時点のみ非日常であろうとしてその空間に飛び込んでいく。

 聴き手たる個人の脳が日常と非日常の間に不連続な線を描き、隔絶した世界を築き上げることによって、プレーヤーと聴衆と小屋主の三位一体の世界をまさに非日常空間を自らが演出する。

 そのような聴き手の故意に拠り現出する非日常空間をJAZZにより打ち壊し、日常こそ、非日常であり非日常こそ日常であると“自由な”JAZZでJAZZの空間を築き上げるのが金剛督(すすむ)さんである。金剛グループのJAZZはプレーヤーの優れた技量と相まって正に“示現する”如く、聴衆をインスパイアーしていくのである。

 美しくも柳のように音風に撓る林さんのピアノ、シカゴ派の泥臭さとその表現主義を底に秘めた、つの犬さんのドラム。そして確たる伝統音楽の歴史を背景に、クラッシック技術をJAZZに引きずり込みながら、周到に計算されたpizz.ピチカートでスイングする若き村中さんのセロ。

 そんな、畏怖すべきバッキングを背景に金剛さんのサックスは、音空間の緊張感の脱出先を模索する。ある時は若き労働者の苦悩を詠い、ある時はアジアの貧困と戦争の伝承を託し、その荒いブレッシング音と共にバッキングに繋ぎとめられた自らの音楽を解放しようとする。その開放の辿り着く先は何処なのか。

 粘っこいバッキングは自らの主張を堂々と繰り返しながら金剛さんのブローし荒れ狂う音をこの場に繋ぎ留め置こうとする。まるで、金剛サックスの勇気を試すかのようだ。
林さんのピアノはある時は、しなやかなピアノタッチを鍵盤に真上から敲きつけながら巧みに金剛さんを挑発する。

 室舘さんのVoは楽器である。彼女の伸びやかな唄声とレオン・トーマスを髣髴とさせるスキャットは、時代を超えて切り取られた非日常の空間を巧みに演出する。この非日常の体験を糧として日常を生き抜く勇気を与えるが如くである。
 やがて金剛さんの咆哮は怒りや、生活や主張や告発を包含しながら聴くものを新たな広々とした明るい陽射しの草原のような空間へと誘って行くのである。音は解放される。そこには清清しいそよ風と母に抱かれるかの如くの安堵感が待っていた。

 金剛グループのJAZZを“新しい”JAZZなどという表現は当たらないに違いない。“自由な音楽”なのである。JAZZに国境などない。フォークロアフォークロアミュージックに根ざした民衆の生活と歴史と演奏者の主張が織り成し、創り出す音楽こそJAZZなのである。

 言葉や言語でいくら表現しても何ほどのものか。JAZZはその表現に優るものはない。狭い前頭葉を駆使しても“そのJAZZ”を乗り越え表現すること叶わず、である。しかし、その音が次の新地平を切り開く武器であるかのごとく、過去の空間と時間を疑似体験する際の手立てとなればよい。その試みこそが、そして同空間を享有した者のみが“そのJAZZ”と金剛JAZZの示現を垣間見ることが出来るのである。