雨のバラード(トオルチャン バージョン!!)/ザ・スウィング・ウエスト :贋・「この野郎!キラーチューンだな・・」 5
メンバーには、現ホリプロ社長の堀威夫(リーダー)、 佐川ミツオ(ボーカル)、 守屋浩(ボーカル)、 湯原昌幸(1964加入) 田邊昭知(ドラム)というそうそうたる面々が在籍しました。
1960年代中期にはエレキバンドに転身、さらにグループ・サウンズのスタイルとなって1966年7月に、流れ者のギター/待っててシンディー、でレコードデビューしました。
ザ・ゴールデン・カップスのデビュー曲である『いとしのジザベル』が1967年6月15日に発売されると、ザ・スウィング・ウエストは1967年9月10日に「恋のジザベル」を発売します。所謂、「柳の下」ジザベル現象です。
その後、君の唇を/さいはての涙(1968年1月10日)ストップ・ザ・ミュージック/心のときめき(1968年2月15日)幻の乙女/雨のバラード(1968年5月10日)涙のひとしずく/渚の乙女(1968年10月25日)
悲しき天使/ビー・マイ・ベイビー(1969年1月15日) そよ風のバラード/愛の終り(1969年3月25日) レッツ・ダンス/愛の詩(1969年6月25日) 孤独/白銀のバラード(1969年9月25日) など、矢継ぎ早にシングル・リリースをします。
ストップ・ザ・ミュージック、悲しき天使、そよ風のバラードはヒット!しましたが1970年にGSの常として解散してしまいます。
しかし、その後、1971年にソロヴォーカルとして再デビューを果たした湯原昌幸がB面曲「雨のバラード」を彼自身のリメイクで切々と歌い上120万枚を超える大ヒットを記録したのでした。
梁瀬トオルさんは山本徹といえば、思い出す方もいらっしゃるかもしれませんね。
当時は湯原さんの倍の人気がありましたが、惜しくも52歳の若さで亡くなられました。
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