ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

ケチャウアというモスクが信仰の聖地であれ何であれ、Archie Sheppは縋る事を捨て「変転の時」を向える。

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 故高柳昌行氏はArchie SheppのJAZZを「山積みした古い手法の中に、斬新な芽吹きを創作し、軽やかに息づいている廃墟の雑草を感じさせる。」と1972年の9月に言い表わした。

 正に、至言である。

 Archie Sheppはよく『フリー系のサックス奏者であり、ジョン・コルトレーンの「アセンション」で起用され頭角をあらわした。』と語られる。それもむべかるかな。しかし、その物言いは充分ではない。

 前回も書いたように1962年のBill Dixonとのグループ結成で、彼の独自サウンドへの歩みとその傾向ははっきり現れる。このArchie Shepp-Bill Dixon Quartetはこの年の、ヘルシンキ国際青年祭でゴールド・メダルを獲得した。このバンドが双頭バンドであったことの意味は大きい。Bill Dixonの発言が直裁的にArchie Sheppを揺り動かし、影響を与え本格的に音楽活動をはじめて僅か2・3年ですでにArchie Sheppは彼自身の言葉で語り始めたのである。

 Archie Sheppは彼の自己認識過程、自己実現の獲得過程を、言い換えればArchie Sheppの強烈な民族意識と反差別意識、この自己規定の表現の発露と彼の楽器の間に横たわる大きなギャップを埋めていく永い作業が開始されたのである。

 その意味でArchie Shepp-Bill Dixon Quartet (Savoy MG 12178)は重要なアルバムであった。ユニットとしてはオーネット・コールマンの影響が強いが、ざらざら感のある、シェップの音とディクソンの茫洋としたアンサンブルから生まれる気だるいムードが堪らない。

 気だるいムードと言うにも色々あるもので、ここで言う気だるいムードとは、

Archie Shepp And The Full Moon Ensemble:
Clifford Thornton (tp, p) Alan Shorter (flh) Archie Shepp (ts, p, recit) Joseph Dejean (g) Beb Guerin (b) Claude Delcloo (d)
live in Antibes, France, July 18, 1970

Archie Shepp And The Full Moon Ensemble Live In Antibes, Vol. 1 (BYG [F] 529.338)
・The Early Bird, Pt.
・The Early Bird, Pt.

Archie Shepp And The Full Moon Ensemble Live In Antibes, Vol. 2 (BYG [F] 529.339) :live in Antibes, France, July 20, 1970
・ Huru, Pt. 1
・ Huru, Pt. 2

 での、ドラマツルギーに満ち溢れた各メンバーの荒々しくもセンチメンタルな絡み合い、モノローグ、ダイアローグ、コラボレーションに和がれるムードを言うのである。

 この1970年の仏アンティーブ・ライヴ'ではC.デルクーやJ.デジャンなど、ほぼ欧州ジャズマンがリズム隊を固め、C.ソートン、A.ショーターがフロントを華々しく飾る。これほど饒舌なソートンの演奏には滅多にお目にかかることは出来ない。

 いつもはチャルメラを荒々しく吹きまくっている、ソートンがA.ショーターを超えている。

 しかし、クロード・デクルーのドラム、ジョセフ・デジャンの狂気に満ちたギターが荒れ狂う中、C.ソートン、A.ショーターのナイーブでセンシティブな感性に満ちたドラマは徐々に暗転する。

 シェップの挑発的で破壊的なアジテーションでいつの間にか転がり落ちてていく人生と、その転がる坂の途中でフラッシュバックする倒錯した記憶を撒き散らしていくのだ。

 それらが津波のように、そして押し寄せ抗うことの出来ぬ洪水のように脳内を揺らす"THE EARLY BIRD"の演奏。

 日を跨ぎ、その困難は凄惨を極め騒乱と動乱の予兆を所与し、 Huruの演奏が終わる。

 そのアンサンブルは渇望と表現することが出来る。そしてその渇きを癒すものは次の演奏でしかない。いや、永遠に癒されることのない渇きであるかも知れぬ。

 しかし、それも予兆としてしか想像できず、果たされるか否かという漠とした未来でしかない。

 そこに僅かに存在する救いは、渇望するもの同士が独白し、対話し、言い争い、言い募り和む事だけである。渇いているだけに気だるいのである。

 出口のない裸の感情を表現し創造し、形成しては崩壊していく、を繰り返すインプロビゼーションの宿命的気だるさである。削ぎ落とされた感情の表現は時として和んだ気だるさを生む。

 Clifford Thornton やGrachan Moncur III 、Sunny Murray との狂気のようなコラボレーションの底流にある気だるさは正に是であり、惟である。

 アルジェリアのケチャウアが彼らの信仰の聖地であれ、ジャバがレゲー信仰の祖であれ、そんなものは、ジャパニズム竜安寺法隆寺、フジヤマ、ゲイシャとなんら代わりがあるものではなかった事が徐々に確信に変わる予兆こそ是であり惟であることに気付き始めるのである。

 そもそも、演奏者たるもの心のと演奏のよりどころを信仰などという、人間の弱い環に頼ることこそが屈服の証左であった。

 その地点に自身を置くことこそ、政治アピールたるJAZZの大きな弱さを露呈しているのである。

 しかし、それはその歴史の一部の時点とそのパフォーマンスに限定されているのであって、その意味と正当性と真意の発露において些かも他言者に批判される所以などない。

  その意味で、まさに、ジョン・コルトレーンこそ弱者の象徴であったことは他言を待たない。コルトレーンはJAZZの古典であり、未達であったのだ。

 些かもコルトレーンを批判するものではないが、それ故に、後継足りうる、ファラオ・サンダースアルバート・アイラーアーチー・シェップコルトレーンを超えたのであった。

 そして、Archie Shepp は1971年に正に「変転の時」を向える。