ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

無音という究極のアヴァンギャルドミュージックスタイル…『直嶋岳史, 竹田大純,ユタカワサキ,竹内光輝,古池寿浩, 川口貴大,戸塚泰雄 /Septet』は能動的な音と生への挑戦である!!

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 桜満開の季節である。この時期はポテンシャルが確実に下がる。所謂、ダウナーである。

 物狂おしい桜を観ているとそわそわする気持ちと、全く何もせず、只管、布団の中にでももぐり込んで微動だにせず、時が過ぎるのを待ち続けたい、そんな気持ちが綯い交ぜになり、心を可笑しくする。

 昨晩は4時半まで「新宿鮫:狼花」と今野敏の「逆風の町」を仕舞いまで読んでいた。起きたのが6時半。

 2時間の睡眠もこの時期には良いものである。

 そんな、若干朦朧とした頭でなければ、このアルバムのことは書けないだろう。

 『Septet』:
直嶋岳史:ミキシング・ボード
竹田大純:ギター
ユタカワサキ:ギター
竹内光輝:フルート
古池寿浩:トロンボーン
川口貴大:リモデルド・カウンター
戸塚泰雄:コンプレッサー  :meenna-333 2007年7月29日発売 (税込 2,100 円)
録音:大蔵雅恵、2006年9月10日、東京「Tanker」
マスタリング:中村としまる、2006年12月16日、東京

 詳しくはライナーノーツを読んで欲しい。
 
http://www.ftarri.com/meenna/333/index-j.html  

彼らの主張は言語的には、ここに語りつくされており、彼らのプロフィールも参照して欲しい。

 しかし、この衝撃はこのCDと実際、取り組んでみないことには理解されないだろう。

 私はこのCDを一体、何度聴いてみたのだろう。最初の2~3回は全くの、遣り過ぎ、月並みの言葉で言えば「冗談」の類ではないかと思ったものである。

 深夜にベッドの脇のBOSEで聴くと、いつなんどき、どのような音が流れているかが解からず、エアコンのコンプレッサーの音や、マンションの外からかすかに聞こえる物音と交じり合って区別がつかない。

 そのうちに寝入ってしまう。今度こそは、と聞き耳を立てながら注意深く聴いても何時どのような音が何時出ているのかが理解できなかった。時折、弦を擦る音、楽器?の摩擦音のようなものが微かに聞こえる。そしてフルートらしきボーッという息継音。

 このような状態が47分と48秒、そして19分と48秒続くのである。悪い冗談である。

 しかし、ふと気付くと、何回も何回も、場所を変え、機材を変えて、聴き耳を欹てている自分に気付く。

 そして一切の前提も偏見も妥協もなく、彼らのミュージックと取り組んでいる自分がいるのである。

 予備知識など何もなかった。

 実は、ライナーノーツが挟まっていたことすら気付かず、disk unionで1,000円で購入したものである。ライナーなどつい最近読んでみたものでる。

 しかし、いつのまにやら、この無音と微音と言う、ある種アヴァンギャルドミュージックの極致に、只管居心地の良さを見出し、安息を見出している事に気が付いたのである。

 安息は驚きから驚愕へと変わり、そして猛烈なる意思を感じる。それは挑発であり、彼らの音の外部に対する挑戦である。

 強烈な挑戦者たる音は一音の発する重みが如何に重く、身体にのめりこんでくるかの認識を確実に迫る。

 無音と微音の空間の中の、一音や擦過音や其のアンサンブルは其の存在を強烈なインパクトをもってして圧力となり、こちらの世界に圧迫を仕掛けてくるのである。

 挑発し挑みかかる能動的な意思は、最終局面にはリズムとアクセントでラストの10分を刻み続ける。

 セカンドコンセプトはリアリズムである。茫漠とした無音、微音環境から僅からながらずつ、音媒体に意思を付与していく。散文的な意思を少しずつ、少しずつ撒き散らしていくのである。

 その意思は狂気に陥ることはなく、冷静に音外部の空間を少しずつ剥がしに懸かってくるのである。
 
 それはまさに安息に沈滞することを告発し、安住から思考へそして、陽炎の世界の中での生への誘いを喚起しているか如くである。

 このような体験は、アート・アンサンブル・オブ・シカゴの「苦悩の人々」を聴いて以来、かつて那覇桜坂劇場で味わったシネマ・ダブ・モンクスのライヴパフォーマンス以来である。

 このCDを誰彼かまわず勧めるわけには決していかない。

 しかし侘びだ、寂だ、静だ、無だ、と言う前に一度は味わって欲しい。そして何度でも“針を落として”欲しい作品である。

 このような音楽にはなかなか巡り合えないものだ。特にこの桜の陰鬱な季節には格好の生へのいざないの魂の揺らめきである。