アストル・ピアソラの白鳥の歌、クロノス・カルテットとの名コラボレーション「ファイヴ・タンゴ・センセーションズ 」
新潟出張から帰ってきた。週末と休日の上越新幹線は混み合っている。指定席を取り、端の席を確保するのは容易ではない。
新潟は、相変わらず寒かったものの厳しさは緩んできているようだ。新潟の人は「暖かくなってきた~」と喜んでいた。
新潟は魚介類が美味しい。今回はバイ貝と鰤の刺身が絶品で、バイ貝の刺身は歯ごたえがあり、唸るほどの稀に見る美味しさであった。また、郷土料理ののっぺ汁も久々であったが美味であった。
のっぺ汁を食べると猪口邦子がまだ母校で教鞭をとっているときに、新聞に書いた「のっぺ汁の思い出」を思い出す。我が高校の先輩である猪口孝氏の実家に正月、里帰りした際に食べた新潟の郷土料理のっぺ汁が美味であった、というくだりなのだが、その材料に高級食材がならべてあり、山の手の、のっぺ汁と我が下町の貧乏家の、のっぺ汁は材料からして違うのか、と反感を持ったことがある。
しかしながら、「のっぺ、のっぺ汁」は別に新潟固有、特有の郷土料理であるはずもなく、学者など所詮いい加減な者である。
しかし、貝柱の出汁が程よく利いていて、牛蒡、人参、里芋、が細かく切ってあり、銀杏、ナルトもしっかり入っていたので我が故郷の味であることには変わりはなかった。
行き帰りの新幹線の中では「世界がわかる現代マネー6つの視点」(倉都康行:ちくま新書)を読み終わり、「人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか 」(水野和夫:日本経済新聞社)に取り掛かることが出来た。
今回の北京オリンピックは無理だが、あれほどの練習量と実力者。何度でも再チャレンジはきく。
昨晩の内藤大助選手もそう。才能あるスポーツマンは身体を壊さなければ精進と練習で再チャレンジが利くのである。
しかし、現在のグローバル経済の中では労働者は、もはや再チャレンジは無理である。この二冊を読んでみて実感した。
問題意識として記すならば、数々の戦争と対日要求を経ながら、アメリカにオイルマネーが流入し、日本人の貯蓄が米国債(財務省証券)に変わり、中国の投資がアメリカの財政を支えるように、資本が容易に国境を越える時代、いわゆるグローバリゼーションの時代には、資本は「帝国」との親密性を高める。アメリカは「帝国化」する以外にその国民消費を維持することは出来ず、資本の国境を越えた自由移動がBRICs、いわゆる中国、インド、ロシアなどかつての帝国が急速に成長・経済台頭している理由はその例の一つに他ならない。
19・20世紀は実質賃金が上がり続ける「労働者の時代」だった。しかし、グローバリゼーションによって「資本の反革命」が起こり、先進資本主義国の賃金は徹底して抑制される。
先進国ではデフレが恒常化しディスインフレが定着する。金融政策は緩和基調となり、マネーの膨張で資産価格が上昇しやすくなる。いわば金融経済が実物経済、すなわち雇用や生産活動を振り回すようになった。
そんな時代に労働者の再チャレンジなどありえない。この、グローバリゼーションの本質を冷静に捉えない限り未来は暗い。
そんな訳で…!?(どんな訳だ?)
しかし、ピアソラ特有の骨太でがっしりした哀調のタンゴは筋金入りであり、このアルバムに、なんらの悲壮感もありません。
ピアソラが、先鋭的で挑戦的、いかようなる現代音楽にもぶつかっていくクロノス・カルテットとのために書いた作品のなかでは、自らが参加しているだけに哀愁と言うロマンティズムを鮮明に表現しているのが良い。しかし、ピアソラの怪しげな切なさと厳しさは些かも損なわれてはいない。
この強烈なるアイロニーが、ヴェトナム戦争末期に結成されジミ・ヘンドリックスの「パープル・ヘイズ(紫の煙)」で一躍、名声を博した、現代音楽の雄クロノス・カルテットと結びついたのは必然であったのでしょう。