ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

古町にあふれる「高柳昌行・阿部薫デュオ」の手書きの張り紙…

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 1970年8月30日、新潟市の古町(正しくは新潟市西堀通り旧小林百貨店向かい)の喫茶マンハイムで、高柳・阿部薫のデュオが開催された。暑い暑い!日であった。乾いた風が吹いていた。

 当時としたら画期的な出来事である。しかし、当時、私は15歳、高校一年生であった。古町には白地に墨字の張り紙が溢れていたことを思い出す。

 しかし、誰が高柳昌行阿部薫を知っていたのだろう。

 私は、当時バス通学、古町辺りで乗り換えて学校町まで通っていたが、帰りは古町をぶらつきながら帰ったものである。あのビラは先鋭的な輝きを持っていた。

 結局、マンハイムへ行くこといは無かった。お金が無かったのだろう。なにか、後ろめたさがあったのだろうか。

 あの、ビラを作成したのは誰だろう。マンハイム間章氏の親御さんの経営するお店だったので、間章氏と彼の仲間たちが作ったのか。それとも、地元の野坂恒如(のさかすけゆき氏、野坂昭如氏の御実兄で新潟県庁にお勤めの傍ら、新潟のジャズの振興や若き不遇なジャズマンを物心両面で支援された。ジャズ評論にもお力を入れておられた)の力添えもあったのだろうか。

 この演奏に遭遇できなかったのも私の大きな心残りのひとつであるが、後悔ではない。お金が無い、高校生であった、仕方の無さだったのである。

 しかし、この、「高柳昌行阿部薫デュオ」(内容はさだかではない)ビラがこの後のジャズに向かう姿勢に大きく影響することになる。