ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

Gato Barbieri を聴け!JAZZに境界はない。「The Third World Revisited」

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 Gato Barbieri のコレクションのうち何枚かを紹介したい。

 Gato Barbieri と言えば、日本では「ラスト・タンゴ・インパリ」かも知れない。

 しかし、Gato Barbieri を聴いてきた私にとってはそんな評価だけでは、当然、不満である。

 Gato Barbieri は1971年に日本で紹介されて以来、様々な評価を受けてきた。

 曰く、「第三世界からの新しいJAZZの登場」、曰く「神秘主義」。JAZZか否か。「Gato Barbieri のJAZZはジャズではない」等々。

 様々な意匠を纏う者は様々な評価を受けるのは当然かもしれない。

 かまびすしく喧伝する、JAZZ評論屋諸氏のうだうだした百題壮言は捨てておくとしても、彼の発言や主張は諸諸の誤解を産む緒言となったことも事実である。

 しかし、彼の発言を置くとして、聴く者はその意匠のみに捉われず、その音とフリーク、バッキングの構成から出来上がる選曲とその音空間から、彼を正当に評価しなければならない。

 その事こそが彼がアルゼンチン出身として拘った事を理解し、彼の歴史と彼の歴史背景、伝統的な彼の音楽背景を理解し、なかんづく、彼の主張と哲学を理解するに足りうることと理解するからである。

 理解することによって聴くもの、聴衆者は、同じ音空間と共に次元を超えて演奏者と共有感を持つことが出来るのだ。それは聴衆にとっての大いなる悦びであり、その至福のときを持つことのために、JAZZに生活を傾注するのである。

 Gato Barbieri の演奏の歴史はその多作ゆえに実にわかり難い。

 彼が、メジャーデビューしたのがCTIクリード・テイラーフライング・ダッチマン(F/D)のボブ・シールであったとしても、彼の哲学に到達するまでの息つく道のりは程遠かった。
 
 Gato Barbieriはアルゼンチンに生まれ、12歳の時にチャーリー・パーカーの演奏に影響をを受けてクラリネットを始め、その後アルト・サックスに転向、地元の人気グループであったラロ・シフリン(p)のオーケストラに参加した。
 50年代後半にはテナー・サックスに転向して自身のバンドを率いるようになり、活動の拠点をヨーロッパへ移す。63年にドン・チェリーと出逢い、フリー・ジャズの道を歩む。リべレーションJAZZオーケストラやカーラ・ブレイ(key)の『エスカレーター・オーヴァー・ザ・ヒル』などに参加し存在を知らしめ、70年代には、ドン・チェリーの大きな影響で南米の民族音楽のリズムや和声を自分の音の根源に据えるのである。

 アタウウルワ・ユパンキ。彼の骨格を成すものの名前である。ラテン、タンゴそしてファド。口に出すのは容易いがその伝統を自分の食い扶持たるJAZZに反映させるのは困難な行為である。

 その困難な作業と流布する苦行の表現がGato Barbieriの幾多の労作である。それはすぐには現れてきたのではなかった。

 徐々に徐々に、叩かれ叩かれ、生活の糧を賭けて、形づくってきたものである。それがJAZZMANの歴史である。

 そんな歴史と個人にボーダーなど在りえるものか。ましてや、第三世界云々、神秘主義や宗教。民族の違いや人種の違いなど存在しないのである。

 そのことをGato BarbieriのJAZZは大きく示唆しているのである。