ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

南洋小唄です。


[imo 沖縄民謡 南洋小唄 Nanyo Kouta 三線]


 昨日、日曜日は次男をサッカーの練習に送った後、ジムで入浴。悪質な風邪も抜けたようで、思考回路が普通に戻ったようです。

 この間、相変わらず、沖縄本を続けて読んでいます。

 最近では高良倉吉「琉球王国」、太田昌秀「沖縄、基地なき島への道標」、高良勉「沖縄生活史」など…。

 沖縄関連本で読まねばならぬ本が部屋に山積みされています。

 しかし、沖縄を考える視点は確固としてもたねばならないでしょう。

 沖縄の歴史の視点です。民族論など兎も角も、沖縄は「琉球王国」であったことです。

 沖縄は中国でも日本でもアメリカでもなく、「琉球王国」であったのです。

 いくら地方分権論が盛んでも「安保論」の論争がいかなる方向へ行こうともこの確固とした歴史史実は消えることはありません。

 さて、昨年末、那覇を訪れた際、「おもろまち」にある沖縄県立美術館で行われていた『南洋諸島の芸術家展』(戦前、日本から南洋諸島に渡ったアーティスト)を見逃してしまいました。

  次回からは、年間パスポートを購入し頻繁に訪れようと思っています。

 * 旧南洋諸島には沖縄の人たちが移住をしていたという歴史もあります。

 昭和15年には、約5万人の沖縄県人が移住していました。

 旧南洋諸島は現在のミクロネシアの一部で赤道以北のマリアナ、カロリン、マーシャル三島をさします。

 大正3年<1914年>第一次世界大戦開戦間もなく、日本海軍は諸島を占領。以来、第2次大戦中の昭和19年<1944年>米軍が占領するまでの30年間、日本国の統治下にありました。

 沖縄人が南洋諸島に移民をした理由は次の三つです。

(1)貧困と人口過剰の緩和。
(2)日本統治地のため、ビザ不要で渡航できた。
(3)労働によって、生活の安定が得られた。

 南洋群島サイパン市庁は、サイパン島テニアン島、ロタ島などを統治。他にパラオ、ヤップ、ポナペ、ヤルートの市庁がありました。

 生産は、日本資本南洋興発会社の管理下の糖業が主であり漁業も盛んでした。

 昭和19年2月23日、米軍はテニアン空爆

 同年8月3日、日本軍が壊滅した時点には、サイパン島・約6000人、テニアン島・約3000人の沖縄人が戦没したという悲惨な歴史があります。


  戦前、沖縄芝居の女形として大人を博した比嘉良順の作った名曲「南洋小唄」です。

 戦前の南洋には多くのウチナーンチュが夢を描いて移住していました。

 比嘉良順も希望を抱いて南洋へ渡りましたが、その思いは果たされなかった、ということです。

 (*週刊上原直彦6月27日号を参照させて頂きました。)

【唄意】

 1)恋しい古里の親兄弟と別れ、憧れの南洋に渡って来た。

 2)寝ても覚めても朝晩、胸の思いは、男の手本となることばかり。

 3)遠く離れていてもお互い変わないでいよう。手紙こそが、貴女の思いを届 けるよ。

 4)年が明けて新春の花咲く頃、錦を飾るべく、故郷に帰ろう。

 5)そのように言って出征した人は誰だったか?すでにサイパンの土となった のか?