気取(けど)られた「予定調和」など易々と破壊し尽す、パン・オクターブ、クラスターピアノ:「Echo / Dave Burrell」・「ドリームス/デイブ・バレル+吉沢元治 」
因果律が未来予測になんらの効果をもたらすことはなく、偶然の産物であることは哲学的には明らかであるが、未来を本来的な時間のあり方として未来に対する態度・行動を人間存在の本来的在り方とする考えは、社会に重大な誤謬をもたらしている。
未来事象は「現在、到来すると思われること」ではなく、「現に到来する」ことである。その到来する事実が如何に我々に重く圧し掛かろうが、そこには、飛び超えることが出来ない大きな裂け目が存在し決して繋がらない溝がある。
つまりは「未来」などそもそも存在しない。未来は創造の産物であり、想像する未来があるのみである。
過去と現在以外に未来など存在しないし、現在と過去の、未来という創造の、その溝を埋めようとしてもなんらの成果は生み出しえない。
個人にとっては突然の死、国民経済においてはクライシス、人類にとってはクラッシュという、「重いて耐え難い現実」は「到来すると思われる」ことではなく「到来する」のである。
その意味で不条理であり、回避できない現実である。
しかし、そのことが理解できなければ、次のようなことが起きる。
2100年における地球の状態を予知できるものとして、それに到る半分のタームを設定し、またその半分のタームを設定する。つまり、100年のタームには50年のタームがあり25年のタームがある。故に到達状況を「来るべきもの」として未来に設定し、時間と言う媒介項を引きずり出すことが出来るのである。
人間は考える。目の前の危機から目をそらすためには頭を働かす。
100年後の未来が「予測できる現実」として考えるものは、否、「満たされた現在時間が未来を創造すると考えるもの」という正当項を持つものは、その「未来の想像しうる現実」に時間という大きな隔たりを万人に宣言するが如く、設定することによっていくらでも問題の先送りが出来るのである。
氷河期に向かう地球の温暖化現象が人類存亡のクライシスをもたらすのは100年後ではなく10年後、いや2~3年後であるかもしれないのである。
誰もその未来を回避することも出来ないが、思考として逃避することは出来る。
しかしその現実は「到来すると思われる」ではなく「到来する」となれば、今回の環境サミットで2020年目標を設定できなかったのは、如何にこの問題を取り違えているか解る。
誰もその未来を回避することも出来ないが、思考として逃避することは出来る。
しかしその現実は「到来すると思われる」ではなく「到来する」となれば、今回の環境サミットで2020年目標を設定できなかったのは、如何にこの問題を取り違えているか解る。
各国のエゴといった問題の建て方では解決など覚束ないのである。
「予測できる現実」を考えるものは俗語における「予定調和」に頼らざるを得ない。つまりは、暴走した経済、暴走する帝国主義をなんらかの方策や政策・施策により制御できると妄想するのである。
予定調和に頼るものは経済の意思決定や帝国主義の意思決定に恩寵をもたらす。
それぞれの方向性がなんらの因果律に捉われず無規則的に増殖しつつアメーバー状の運動を繰り返していくからである。
原油価格の暴騰を観よ、食糧危機を観よ。余った通貨は更なる増殖を求めて無媒介で蠢きまわる。
エチオピアに限らずアフリカ諸国においては、もはや飢餓が餓死を毎日毎日拡大生産しているではないか。
クラスター爆弾を廃棄する道筋すら立たないではないか。
劣化ウラン弾は国際的な武器であり、堂々と生産され続けているではないか。
デージーカッターなる巨大殺傷兵器は益々進化を遂げ、世界的に分散確保されているではないか。
全て、哲学の誤謬から来る知の劣化であり、これを克服するのは難しい。
足元を観よ。日本の企業や中小企業は劣化の一途を辿り、陳腐化しているではないか。雇用を創出するどころか、海外に延命の道を模索するしかない存在に成り下がろうとしている。
もはや企業など国民経済に存在感すら与えられないものに成り下がろうとしている。
先ずは次のことに気がつくことである。
未来は存在しない。
現在として存在するのである。過去は現として存在する。現在は過去に連なる意思決定の所産である。
過去を徹頭徹尾、振り返ることにより現実を生き、意思決定するほかに道はない。
また、制御論など無価値である。制御できないことが哲学の根本問題である。
:☆☆☆
さて、DAVE BURRELLのEchoは、混沌である。カオスである。その混沌の中をスタンドを踏みっぱなしにしてパン・オクターブでキーをガンガン叩く。
さて、DAVE BURRELLのEchoは、混沌である。カオスである。その混沌の中をスタンドを踏みっぱなしにしてパン・オクターブでキーをガンガン叩く。
鍵盤を打ち鳴らすのである。
モンカーやアーサー・ジョーンズ、シェップあたりはその混沌の中に埋もれつつも、主張をもって主張しクリフォード・ソーントンのコルネットはメロディ・ラインをハッキリさせつつ自己主張する。あたかも各人のフリープレイはある種の予定調和を求めて出口を求めるのだが、DAVE BURRELLはそんなことはお構いなしに爆走する。
セシル・テラーなど比ではない、ましてや昨今の山下洋輔など足元にも及ばない。暴力的であり破壊である。
あらゆる伝統とメソッドを持ちながらも未来を潰すために過去をも乗り越えんがため破壊する。幻想と言う未来に決別するために過去を乗り越えるのである。
かつての山下洋輔の試みと挑戦もそうであったに違いないし、そのように確信する。
B面の「peace」では長音階(ドレミファソラシド)の展開を延々リフする中で、幾人かのコラボレーションそのものを、分解し発展させ、ループし続けていく。
各人の意思を調和させるかのごとき西洋音階のリフの中で、容赦なく解体の兆しを鍵盤にポインツ&ドットしていくのである。クラスターからの変幻である。
まさに、DAVE BURRELLは過去から現在に、過去を直視することによって満たされた現在が現在を築くと言う、現実直視のフリーJAZZ第二世代であることをこのアルバムは物語っているのである。しかし饒舌ではない。饒舌さでは1970年代初頭の山下洋輔には適わないだろう。これが欠点である。
そんな、DAVE BURRELLが孤高のベーシスト吉沢元治と競演したのが、「ドリームス」である。1970年代を代表する名アルバムに仕上がっている。
吉沢元治の真骨頂は、孤独のうちの外との個の対話にある。内在性に個の可能性を求め、徹底的に内省をする。ソロに徹頭徹尾拘り、更なる一層の深化を目指す。
吉沢元治の真骨頂は、孤独のうちの外との個の対話にある。内在性に個の可能性を求め、徹底的に内省をする。ソロに徹頭徹尾拘り、更なる一層の深化を目指す。
己との対話の他、自省する術を持たなかったその存在が、その内省の深化とともに、ふとある種の邂逅により浮かび上がるとき、個と孤の器と壁からパトスが溢れ出し紡がれたサウンドコーポレーションが産出されるのである。
DAVE BURRELLとの邂逅である。
自制・自愛・自己容認が自省・慈愛・自己発露の道を潜り抜け自由と自己律のうちに再度個と孤に立ち戻る。
想像すら、機会すら持ちようもなかった個人と個人との邂逅。すれ違いのような人格のぶつかり合い。
そんな、逢う魔が時のようなセッションである。しかし、素晴らしい。
「Echo / Dave Burrell」
Recorded in Paris on August 13, 1969
: Dave Burrell with Archie Sheep (Tenor Sax), Alan Silva (Bass), Sunny Murray (Drums), Clifford Thornton (Cornet), Grachan Moncur III(Trombone) ,Arthur Jones (Alto Sax).
Recorded in Paris on August 13, 1969
: Dave Burrell with Archie Sheep (Tenor Sax), Alan Silva (Bass), Sunny Murray (Drums), Clifford Thornton (Cornet), Grachan Moncur III(Trombone) ,Arthur Jones (Alto Sax).
:「ドリームス/デイブ・バレル+吉沢元治 」1973年11月30日イイノ・ホール録音
1、レッド~ブラック
2、グリーン~デイドリーム
2、グリーン~デイドリーム