ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

火を噴く三つの鬼才!山根明季子さん、John Corigliano、そして瀬尾 和紀さん:5月19日(月) 午後7時開演 読売日本交響楽団:第471回定期公演会(サントリーホール)を聴く…

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 雨の中、サントリーホールへ急ぐ。雨足は思ったほどではない。夜半から明け方にかけて暴風雨になるということだ。

 いつもの定期公演会に比べると、客が極端に少ない。
 
私のシーズン・チケット席の列など、私以外に誰も座っていないのである。

プログラムを広げる。
☆第471回定期 5月19日 (月)
指揮:下野 竜也 フルート :瀬尾 和紀
ワーグナー: 楽劇<ニュルンベルクのマイスタージンガー>第1幕への前奏曲
山根明季子2008年度読売日響委嘱作品:オーケストラのための「ヒトガタ」(世界初演
◆コリリアーノ:ザ・マンハイム・ロケット(日本初演
       :ハーメルンの笛吹き幻想曲(フルート協奏曲)

 イヤハヤ、垂涎の代物のオンパレード!思わず舌なめずりをする。
これだから、読響の「定期演奏会」は止められない、堪えられない、堪らない、止まらない。

 若きマエストロ、下野竜也氏の弁を借りれば、「前回の定期演奏会は、格調高き、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー先生の ブルックナー交響曲第5番。今回はゲテモノ担当のシモノと致しましては…」と言うことになるのだから、客席に空席が多いのも、ムベナルかな。

 しかし、自虐的なギャグは兎も角として、大胆で意欲的なプログラムを組み、果敢に挑戦する、読響と下野氏の奮闘と挑戦に大きな拍手を贈りたい。
私はブルックナーのファンであるので、前回の演奏にも感激した。しかし、ワクワク感は今回の方が比べるべくもなく大きい。

 ところで、では、なにゆえ冒頭、マイスタージンガーなのか?答えは簡単である。
 
 コリリアーノのザ・マンハイム・ロケットでロケットが急激に降下しようとするのを下から食い止めようとするのが「マイスタージンガー」のフレーズなのである。

 いささか、小憎い演出であるが、しかし、これはプログラムを見なければ解からぬ話ではある。些か、この「ザ・マンハイム・ロケット」漫画チックな作品ではあるが、楽しめる。日本初演と言うのも良いし、いかにも新し物好きの読響らしい。面目躍如である。

 圧巻!その1。山根明季子さんの「ヒトガタ」である。

 彼女の言によれば、「作曲とは音で模様をデザインする行為であり、音はそれ自体として眼で見ることができない聴覚上の現象であるが、そのような空間を時間で縁取ることが、自分にとっての作曲である」と言うことになる。

 人は記号化されたモノであり、ヒトガタとして表出し、多層的な時間、そして音のない空間の中にオブジェの如く浮かび上がる。

 ヒトガタとヒトガタのセッションは様々な音、無音、散り散りに存在する言語の体をなさない文字、切り離されたデータとして存在するランド・スケープの空間の中で脈絡なく、延々と続く。

 バラバラに流れていく多層的な時間、多次元的な空間は、やがて思惟と思考というパラメータを与えられ、存在と共感と共生を齎すのである。

 千切れた文字は、言語として創出され、視覚されたデータはやがて像として結び我々の眼前に環境と言う名のランド・スケープを造形する。

 恰もヒトガタという赤子が言語を獲得し、環境の中に生きるすべを見つけヒトとして邂逅していくが如くである。

 この、プリミティブで哲学的なテーマを輻輳するリズム、テンポのパーカッション群はカバーし、ゲネラルパウゼを多用し、弦管はトータライズする。この下野氏と読響のテクニックと意欲には並々ならぬものがある。
    
 「日本のオーケストラは凄い、読響はこんな凄い演奏をするのだ!」と思わず叫びたくなった。

 圧巻!その2。ハーメルンの笛吹き幻想曲における瀬尾 和紀さんのフルート演奏である。そして、子供隊・足立区立第十四中学校のフルート・小太鼓・大太鼓のメンバーの演奏である。

 冴え、響き渡る瀬尾さんのフルートの独奏や物悲しき音調でのコラボレーション、ドラマチックな演出にも関わらず、冴え冴え、冷え冷えする演奏の巧みさ。

 人生は理不尽であり、人間はいずれか、やがて死んでいく。人生は理不尽であるからこそ原理的にはなんらの解決方法もない。だからこそ理不尽なのである。この真実、この大命題すらを乗り越えようとして予感される寓話。

 このテーマをこの演奏者たちは見事に我々の現前に具現化して魅せた。

 この、三つの鬼才の魂のぶつかり合いを下野氏、読響のメンバー、そして子供隊は演出しきった。

 ラスト。「笛吹きの後について、子供たちも笛を吹きながら太鼓を叩きながらどこかへ行ってしまいました…」という雰囲気の中で観客席の花道を歩き去るその寂寞感。

 頭が白くなり、クラクラする圧倒的な空虚な感覚に思わず涙が出てしまった。

 年は取りたくないものだ。