ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

甦るアヴァンギャルド!沖至「殺人教室」:哲学するJAZZ★★★★

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 昨晩は1時に寝つき、4時に起き、読みかけの本を読む。休みの日は、普段より時間が足りない。

 7時過ぎに、双子の息子のうち一人と家人をサッカーに送っていき、帰ってきてから自分の時間の始まりである。

 沖至トリオの「殺人教室」を聴く。

 とにかく、時間はないのだ。時間に追いまくられているのではない。時間は有限なのである。「時間は有限である」という自覚が自分を支える。

 人間は、死という絶対無に、向かって、時間の綾なす空間を走り続けるのである。

 三億分の一の確率を勝ち抜き、この世に現出したその瞬間から、偶然ではなく、逃れられない永遠の無に向かって疾走を始める。死の先には何もない。

 あろう筈もない、あの世など、存在しない。一度死んでしまえば二度とは生き返ることなどありもしない。地球が消滅しようと、太陽が燃え尽きようと、宇宙が無くなろうと、何十億年も、いや、永遠の無が続くのみである。無という恐怖がそこにある。

 死に向かう、そのために、何をするのか。一日一日を、如何に「良く」生きるのか。明日にでも死の奈落の淵に叩き落されることもある中で、限られた時間を、如何に費やすのかを考えることが哲学である。

 私が今、現在、生きているということはどういうことか、私とは何か、今とは何か、現在を生きるとは何か、そして、「良く生きるとは何か」を全身全霊を、込めて、思考思索することこそが哲学である。

 哲学とは勉強でもなく、ましてや学習でもない。自分自身を追い詰めていくことである。

 沖至は、去ること37年前に、アヴァンギャルドJAZZにのめり込んだ。フリーJAZZというには、あまりにも思考思索が先行するJAZZであった。

 思考思索は「試行試作」とも、彼のJAZZの歴史の中では、しばしば、言い換えられてきた。しかし、かれの音と楽曲の組み立てと、演奏はまさに哲学するJAZZである。

 身を削りながら思考思索する、音がそこにはある。

 私は、この「殺人教室」がリリースされた直後に間近にしている。メンバーは片山広明、そしてジョー水木さんのトリオである。

 まさに、試行試作の演奏ではあったが、繰り広げられる実験的な演奏と、直向きな演奏スタイルはまさに哲学するJAZZであった。

 このアルバムで荒削りながらも、複雑かつプリミティブ、ソウルフルなドラミングを展開した、田中保積さんは、45歳にして、前のめりのうちにJAZZのなかで、死んでいった。哲学しつつ亡くなられたのではないか。

 JAZZは哲学である。そして、哲学するJAZZこそ、甦らなくてはならない。

 [殺人教室:収録曲]
 1. 水との対話“Aporia”
 2. 空間の飛翔“Papilio”
 3. 図形的発展“Spectral”
 4. 永遠の詩“Eternal Lyric”
 (全4曲)

沖至:tp, fluh, cowbell, triangle, bells, indian bells,woodblock,etc
翠川敬基:bs, paino,gong
田中保積:ds, gongs, timpani
プロデユース:副島輝人
エンジニア:Kinji Hayashi
1970年発売