ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

主体を語れ!:完全版・緑色革命 ~ Complete Grune Revolution [Extra tracks]

イメージ 1

イメージ 2

 今年の8月16日にこのアルバムが発売されました。

 内容は以下の通りです。

“この作品のオリジナルLPは、A面に高柳昌行とのデュオ、B面に佐藤允彦とのデュオが各々収録されたものでした。しかし実際のコンサート「インスピレイション&パワー Vol.2」(1976.1月)では、最初に富樫雅彦とのデュオ約40分が演奏されており、その後に高柳、佐藤との、各々約20分ずつのデュオが演奏されていたのです。オリジナルLPには富樫のトラックは収録されませんでした。 しかし今回、翠川・富樫デュオのテープ発掘により、完全版として当日の演奏の全てが蘇ります。録音ソースもオリジナル・マスターとは異なり、リマスタリングにより更にいい音質になりました。 富樫、高柳、佐藤との各々のデュオを行う翠川の力量、そして各々のメンバーと作り上げる自由な音楽はこの上なく美しく、静と動が波のように訪れる極上のフリー・ジャズを是非ご堪能ください。 ”…他にこのアルバムについて何も語ることはありません。

 素晴らしい演奏と、当時のフリージャズの息吹を伝える恰好のアルバムです。

 このアルバムの原版について知りたい方は、偉雄『緑の森』氏のブログ:「イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽 」

 「73年、日本フリージャズの熱気の渦 」
 http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/23351364.html

 「時代を語る熱きことば<主体(性)論>。かようなコトバが飛びかっていた<日本フリージャズの>熱き時代のドキュメント。富樫雅彦佐藤允彦のデュオアルバム『双晶』 」
 http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/49225748.html

 「翠川敬基『緑色革命 GRUNE REVOLUTION』(1975)。 高柳昌行の生真面目と佐藤允彦の無碍。際立つ二つの個性とのデュオの敢闘、そのフリーへの濃密な自負。」
 http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/57400066.html

 をどうぞ。格調高く傑作です!

 私は改めてこのアルバムを聴き、三つのダイアローグの中で、主体性ということを考えました。

 主体的自己の原初的な意味で、サルトルは「人間の本質は自由に主体的自己が造る」と語り、人類学者のレヴィ・ストロースは「人間の本質は社会関係の束=構造に規定され、人間は少なくとも『ある程度まで主体的ではない』」と語りました。

 レヴィ・ストロースは1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」において、サルトル実存主義を強烈に批判しました。

 このことから、実存主義に鋭く対立し、それを乗り越えるものとしての構造主義という思想と潮流が、過剰なまでにもてはやされる契機となったのですが、レヴィ・ストロースは「人間の主体性」を否定したのではなく、「人間の主体性は著しく小さく、社会によって規定されている面が大きい」と指摘したのでした。

 「人間は主体的である」と語るのと「人間は主体的であるべきである」とするのは全く違います。

 「人間は主体的であるべきであり、どこまで主体的であるか」を忖度することが重要なのです。

 このアルバムの三つのデュオは己が主体性のぶつかりです。そして「どこまで著しく小さい自己を主体的な演奏により、他者の主体的演奏に触発され、対話することにより、どこまで主体的なりうるのか」の実験であったに違いありません。

 そして、あたかも自由な主体的自己が自由にぶつかり合うことにより、当時の社会という構造を乗り越える契機にする試みであったに違いありません。

 
ディスク:1
1. 翠川敬基・富樫雅彦 デュオ ~ スミナガシ (初出)
ディスク:2
1. 翠川敬基・高柳昌行 デュオ ~ くわの木より生まれ出づる姫に
2. 翠川敬基・佐藤允彦 デュオ ~ マタロパッチの戦い


☆☆☆★:薫柳堂日誌は忍者ブログで更新・公開中です。:宜しければ、Google検索で!

 http://kunryu.blog.Shinobi.jp/ 
  shinobiは小文字で!お願い致します。