ryukyutokyoのブログ:JAZZと哲学と…

DJ.PANK_kunryu (Dj.薫琉)です。東京ヴェルディと沖縄をこよなく愛する、酔っ払い🥴パンクスです。1955年3月新潟市生れ新潟高校ジョリー・チャップス、上智大探検部出身。40年間勤務した職場を大怪我、肝機能障害、糖尿病、過緊張症で退職しました。現在、アルバイトをしながら療養中です。ゴールデンカップス他GS、freeJAZZ、ムードコーラス歌謡

洲之内さんの素敵な生活…

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気難しい性格の長女と沖縄北谷にて…

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那覇泊港の窓辺


洲之内徹さんの「絵のなかの散歩」に、次のような文章が出てきます。

… 私は、夜中にいちど、自分で飯を炊いて食う。別に面白くてそんなことをやっているわけではない。たいて明け方までおきているから、そうしないともたないのである。

 飯を炊きながらテレビを見ることにしている。だから、私の見るのはミッドナイトシアターとか、その種類に限られるのだが、…

さて、この頃、洲之内さんはおいくつだったのであろう。

★洲之内 徹(すのうち とおる、1913年1月17日 - 1987年10月28日)は愛媛県松山市出身の美術エッセイスト小説家画廊主・画商。美術エッセイ「気まぐれ美術館」の筆者として名高い。

  • 松山中学(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1930年に東京美術学校建築科に入学。在学中にプロレタリア運動に参加、1932年に検挙され、学校は退校処分となって帰郷した。そして松山でも運動をつづけ、1933年、徴兵検査後に検挙・収監されたが、後に「転向」して釈放された。その後1938年に軍の宣撫班員となって中国大陸へ渡り、対共工作と情報収集に携わった。そして終戦を迎え、1946年春に帰国した。

戦後、郷里松山に引き揚げて古本屋を開業。その傍ら小説を書き始め、「鳶」「雪」で横光利一賞候補に2回選ばれた。

1952年に中国時代の友人田村泰次郎の勧めで上京。妻と3人の息子を抱えつつ無収入で小説を執筆し、一家離散を経験。この頃、初代『愛媛県民の歌』(1973年廃止)の審査委員を務めたが、該当作が無かったため県の依頼で作詞を行った[1]

上京後は田村の紹介で『群像』誌に小説「棗の木の下」を発表し、この作品と「砂」で芥川賞候補になること2回。田村が1959年に「現代画廊」を開くとそこに入って支配人として働き、1961年に田村が手を引いた後、同画廊の経営を引き継いだ。その間、松山の同人誌『文脈』に発表した「終りの夏」が、1962年に3度目の芥川賞候補となるも、やはり受賞を逸した。

その一方で洲之内は1962年末から1964年春にかけて「愛媛新聞」の美術欄に後の「気まぐれ美術館」の先駆となる美術エッセイを連載した。その後も雑誌や新聞、自分の画廊の展覧会図録などに文章を書き、1973年には書き下ろしの美術エッセイ集「絵の中の散歩」を新潮社から刊行。1974年1月号からは「芸術新潮」に美術エッセイ「気まぐれ美術館」の連載を始めた。この「私小説的美術評論」の連載はしごく好評で、文芸評論家小林秀雄から「いま一番の批評家は洲之内徹だね」と激賞された。青山二郎は「『芸術新潮』では、洲之内しか読まない」と公言し、白洲正子に洲之内のエッセイを読むよう勧めた[2]。「気まぐれ美術館」は休載なく足掛け14年、165回続き、1987年10月に洲之内が倒れ、意識不明のまま月末に亡くなり、突然の終わりを告げた。(#ウイキペディア出典)

多分、現在の私と同年代65歳前後では、なかったのでしょうか。粋な暮らしをしておられたと思います。

 洲之内さんは74歳でお亡くなりになりました。私もそれくらいで十分かなと思っています。私の枕元のカレンダーには私の汚い字で次のような数字が書き込まれています。

2034、2035 : 2024、2025 0301 これくらいは…